わたし・久保田雅人(くぼた・まさと)のまわりで起きた「あんなことこんなこと」・・・。
全国でのイベント裏話や名物・名産、身の回りでのささやかな「出来事」をお話していくつもりです。
お読み頂いたご感想やご意見もお寄せください。
登場人物は、ひょっとしたら、「あなた」かもしれません

この「日々つれづれ」、これまで23年の舞台裏を、
すこしずつご紹介しています ... 今回は、その34回目!
今回は、落語と私のこと ... にからめて です ....。


今回も画像はありません

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 え〜、毎度馬鹿馬鹿しいお話を一席。
 「おめえ、何でも食っちまうそうだが、本当かい?」「おう、おらあ、足が4本生えてるもんならなんでも食っちまうよ。」「へえ〜、そうかい。」「そうだとも、馬でも象でもパンダも食っちまうよ。」「ほう〜そううかい。そんなら、炬燵食ってみろ。」「え?炬燵?」「おう、そうよ。あれだって足が4本だろ、さあ、食ってみろ。」「あ〜、ありゃだめだ。」「なんでだ?足が4本なら何でも食えるんだろ?」「いや〜いくら俺だって、あたるものは食わねえよ。」お後がよろしいようで。

 てなことで今回は、落語と私のお話です。私、いろんな方から言われるのですが、「わくわくさんは、元は噺家さんだったんですか?」と質問されます。え〜、なんと申しましょうか、噺家ではありませんが、噺家を目指していた時代もありました。といっても、私が噺家を目指していたのは、高校卒業まででした。母親が言うには、幼稚園児の頃から、落語をやっていたというのです。幼稚園児ですからちゃんとした話をするわけもなく、座布団に座って、真似事のように落語をしていたようです。この点の記憶は全くございません。

 自分でも落語をした記憶があるのは、小学校3年生以降ですねえ。机を並べて、その上に座って落語をしていた記憶がございます。先生にもウケて、学芸会で披露してました。他のクラスに出張落語をしてました。その頃していた話は、落語といえるようなものでもなかったようです。みなさんも一度は聞いたことがあると思いますが、「寿限無」「目黒のさんま」をやってました。といいても、話の最初と終わりの部分を繋いで、それなりに落語らしくやっていました。小学3年生程度でそれほど難しい話ができるわけもなく、ましてや内容を理解して、全部を憶えて、筋立てできるわけがありません。でも、それなりにウケてた記憶があるのですから、それなりに恰好がついていたんだと思います。当時は、ビデオなんかありませんから、当時を映像で記録されてません。もし、あの当時にビデオがあればよかったなあ、とは思いますが、あまり見たいとは思いません。小学4年生にもなると本人も格好をつけたくて、父親の浴衣を借りてやっていました。本人は、浴衣を着物と思い、一人前の落語家になったような気分で話をしていました。

 そうして、中学生になれば、覚える話も増えていきました。「時そば」「堀之内」「孝行糖」「唐茄子屋」「粗忽の釘」「粗忽長屋」「らくだ」などなどをやりました。落語をどうやって覚えていたかといいますと、主にラジオでした。持っていたラジカセで録音した落語を何度も聞き直して覚えていました。ラジカセなんて知らない方も多いでしょうねえ。当時は皆が憧れ、持っていた必要アイテムだったんです。スピーカーに耳を押し当て、一言一句聞き逃すまいと必死になって覚えました。そのぐらい必死に勉学に励んでいれば、今頃はきっと…、いや、考えるのはやめましょう、無駄ですよね。でもいかんせん、ラジオの落語ですから、身振り手振り、表情の作り方、身のさばき方等は、解るわけがありません。自分で想像しながらやっていました。そんな中で、苦労したのが、話の中に出てくる意味の解らない言葉です。江戸時代に使われていた言葉や習慣、物の呼び方などです。そして最も難解だったのが廓言葉です。そんなもん、中学生に意味が解るわけがない。『花魁』『たいこ持ち』『大門』『遊女』『やり手婆』『花代』『付け馬』などなど。なにしろ、親に聞くわけもいかず、自分で本を読んで勉強しました。このくらい勉強にも真摯に取り組んでいたら…いや、やめましょう。これらの言葉の意味がすべてわかる方は、まあ、いないでしょうねえ。知りたい方は、ネットで検索してください(笑)。中学生の卒業文集には、『将来、落語家になる』と書きました、これホントです。

 高校生にもなると、寄席にも行くようになりました。もちろん、親には内緒でした。私の父親は、この手のものには一切理解を示さず、落語をやることを快く思っておりませんでした。こうなると、プロの噺家の身振り、手振り、身のこなしなどをしっかり理解してきまして、それなりに落語になっておりました。高校ではもちろん落研です。高座名は、忠遊亭古狸です。これは、顧問の先生が付けました。1年生にもかかわらず、ずっと昔からいるような面構えだというよくわからない理由で。学園祭では、和室で寄席を開いて、個々の落語と大喜利をやりましたねえ。高校生の学園祭ですから、色っぽい廓話はご法度で、私は、「堀之内」「孝行糖」などをやりました。

 そして、高校3年になり、進路を決めるにあたり、どうしても落語家になりたいとは思いませんでした。その当時は、日本史の先生になりたかったのです。落語家から日本史の先生とは、これまたずいぶんと方向転換したもんです。落語をやるのもこれまでと決めていました。そんな思いで臨んだ最後の学園祭の寄席、高座に上がって客席をみると、父親が真ん中にでーんと座ってるではありませんか。あんなに息子の落語を嫌っていたのに、しかも客席の真ん中にいるんです。しかもです、笑わないんです、何を言っても笑いません。ブス〜として、ニヤリともしません。だったら来るな!と言いたくなるほどでした。でも、この寄席が最後だと宣言してましたから、見に来たんでしょう。今にして思えば、ありがたい親心です。これ以来、高座には上がっていませんが、落語口調がどこか抜けていないので、皆さん、私を噺家さんだと思ってしまうという、今月の一席でした。お後がよろしいようで。





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